渡辺の脇汗に気付いた薫がやっとの想いで「9+28=37」という足し算を解いたのは何故?
転載元: 「やっと解けた足し算」 作者: TATATO (Cindy) URL: https://www.cindythink.com/puzzle/403
★★★正解★★★
9月28日の授業中に挙手した出席番号37番の渡辺を指名するため。
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★★★数式の詳細説明と物語★★★
夏休みが終わりそろそろ1ヶ月が経とうという残暑厳しい9月下旬のある日、中学校教師の陶薫(スエ・カオル)は些か緊張した面持ちで教壇に立っていた。彼女が向かい合うのは全37名の生徒達。そしてさらにその向こう側には、彼らの保護者達。その日は授業参観日だった。
初めて1年生を受け持つようになってから約半年間、薫は全力で教職に取り組んできた。元来生真面目な彼女は、担当している数学の授業は言うに及ばず、部活動や学校行事においても常に生徒達のことを第一に考え、真摯に彼らに向き合ってきた。そしてその甲斐もあり、生徒達からある程度の信頼を得ているという自負もあった。しかしやはり学校には様々な生徒が居り、多感な時期にある彼らの中には教師と距離を起きたがる者も少なからず存在した。
とりわけ薫が受け持つ1年3組の中でも五十音順で出席番号が最後の渡辺は、何をするにも要領が悪く、引っ込み思案な性格も相俟って、薫のみならず他のクラスメートともなかなか打ち解けられずにいるようだった。その発端は4月中旬頃に遡る。授業中に薫は比較的簡単な問題を出し、その際に挙手した渡辺を何気無く指名したのだが、彼はその時小さな計算ミスをしてしまった。それは本当に瑣末なケアレスミスだったのだが、軽い気持ちでそれを揶揄する生徒が居た。そこまでの悪意があった訳でもなかったのだろうが、その一件は繊細な少年の心に確かに傷痕を残し、彼はそれ以来授業中に一切挙手しなくなった。無論特定の生徒だけに気を遣う訳にはいかないのだが、それからずっと渡辺の存在は薫の気掛かりとなっていた。
そんな中での今日の授業参観である。薫には1つの想いがあった。是非渡辺に挙手してもらい、クラスメートや親御さんの前で問題を解いて貰いたい。そして願わくは、それを端緒として積極性を持ってもらえたら……。そんな事を考えながら、彼女は数学の授業を進めていた。黒板の数式は綺麗に、説明は早口にならないように、生徒達の理解度を確認するため視線は教室全体に、そしていつもより多くの生徒に答えてもらうため問題はやや多めに。そうやって授業を進めていたのだが、授業が終盤に差し掛かっても尚、渡辺の手だけが一向に挙がらない。予想していた事とは言え、教室の後ろで渡辺を見守る彼の母親のことを考えると、薫は焦燥と申し訳無さの綯い交ぜになったような気持ちを抱かざるを得なかった。ふと昔の自分を思い出す。そう言えば、自分も子供の頃は滅多に挙手しない子供だった。勉強が出来ない訳ではなかったが、「万が一間違えてしまったら」と考えるとどうしても勇気が出なかった。だが教師となった今なら分かる。授業での誤答など大した事ではない、大切なのはもっと別の事だと。
授業時間が残り5分を切ったところで、薫は意を決してこの授業最後の問題を出すことにした。黒板に数式を書き記す。少し難しいかも知れないが、きちんと授業を聞いていれば解けるであろう問題である。問題を書き終えチョークを置くと、少しだけ間を置いて彼女は生徒達に尋ねた。
「今日の授業参観で最後の問題です。前に出て解いてくれる人はいますか?」
早速パラパラと10名弱の生徒が手を挙げるが、いずれもこの授業で既に当てた生徒であり、当然渡辺は含まれていない。それを確認した薫は、努めて穏やかに、しかししっかりと言い聞かせるように言葉を続ける。
「少し難しい問題ですが、間違えても構いません。もし仮に間違えたとしても、しっかり見直して、何故間違えたのか確認して、次に繋げればそれは成長となります。数学だけではありませんが、大切なのは自分の頭で筋道立てて考えて、それを皆に伝えることです」
少しわざとらしかっただろうか。最後の部分は何だか自分に言い聞かせているみたいだ、などと考えながら薫が暫し待っていると、ややあって数名の生徒が挙手した。そしてその中には、薫の言葉を神妙な面持ちで聞いていた渡辺も含まれていた。躊躇しながらもゆっくりと右手を挙げた際に僅かに覗いたYシャツの脇には、暑さのせいか緊張によるものか、薄っすらと汗が滲んでいるのが見える。薫は、ふぅ、と小さく息を吐いた。やっとこの時が来た、と思った。
実はこの日までに薫は何度か「その日の日付から授業中に指名する生徒を決める」ということをやっていた。例えば9月2日なら「2日だから出席番号2番の生徒」、「9+2=11だから11番」、「9×2=18だから18番」といった具合だ。この方法だと薫の意志ではなく公平に指名しているようなイメージを与えられるので都合が良いのだ。しかしこのやり方だとどうしても指名される生徒に偏りが出てしまい、特に数が大きくしかも素数である37という数字は作りにくく、出席番号37番の渡辺を指名する機会は皆無だった。6月が30日までしか無く、7月30日と8月29日が夏休みであることを皮肉に感じたりもした。しかしそんな感情はおくびにも出さず、薫はゆっくりと告げた。
「それでは……今日は9月28日なので、9+28=37ということで、出席番号37番の渡辺君、御願いできますか?」
自らの名前を呼ばれた渡辺は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻ると、はい、と落ち着いた返事をして教壇に向かった。チョークを持ち、黒板の数式を解いていく。教室中の視線が渡辺の背中に向けられる中、薫だけが渡辺の表情を見られる位置に居るのは、教師の特権とでも言えるだろうか。そしてそのまま待つこと数十秒。チョークを置き自らの席に戻る渡辺に一言礼を言うと、薫は彼の解答を確認する。…………合っている。途中式も答えも、完璧である。渡辺は確かに勉強が出来る方ではないが、授業についていけない訳ではないのだ。薫は安堵の息を漏らしそうになるのを我慢しつつ、解答に◯を付ける。生徒達の方を振り返る際に一瞬だけ教室後方を見遣った際、渡辺の母親の瞳が潤んでいるように見えたのは気の所為だろうか。胸に熱いものが込み上げるのを感じつつも、出来るだけ平静を装って問題を解説する。解説がちょうど終わったタイミングで授業終了の鐘が鳴った。日直の号令で挨拶を終えた後そそくさと教室後方に向かった渡辺が母親と何を話しているのか薫の位置からでは分からなかったが、その時の渡辺の笑顔は薫に柔らかな満足感を与えるには充分だった。